平成最後の年ではあるけれど
news番組で「平成最後の秋も終わり…」など、やたらとソレを意識させるようなフレーズを巷で耳にする。
国民が目にするあらゆるメディアや役所や貨幣や様々な物販等に使用されてきた「平成」という文字を全部新しい年号に変えなければならないのだから、それに関わる特需がもちろんあるし、たとえそういうのに全く関係のない(私のような)人達でも「平成のうちにしておきたいこと」みたいなのが沸き起こって何らかの動きをするかも知れない。
なかには、平成のうちに「アノ人に告白する」とか「プロポーズを決める」とか。
何にせよ、人が動けばお金が動くのだ。当たり前やけど。
それで、そんな世間を意識してしまうとついウッカリ私も「平成最後の年に、なんかやっといた方がエエことはあるかな?」なんて考えてしまいそうになる。
また、変なこだわりをひとつ増やしてしまいそうになる・・・。
そんな自分に軽くブレーキをかけるために私は、昭和から平成に年号が変った時の自分を思い出してみたのだけど、その昭和最後の年に私はなん~にもしていない。
そして案の定、私はあの年号が変わる時に「記念になるような事をなにかしておけば良かった」なんて事は、一切思っていない。
だからこの、「年号が変わる前に何か普段と違うことをやりたくなる」ような「にわか的なこだわり」を今日は捨てる事にした。
そう。
私が捨てたいのはこういう「にわか的なこだわり」なのだ。
日々、こんな気付きを自分に与えるためにこの「こだわらない生活がしたいブログ」を始めたのだ。( ̄▽ ̄)♪
一般の国民は個々の生活の中で果たすべき義務をいくつも背負っていて忙しいのだよ~。
ところで昭和最後の年で印象に残っているのは、その前年からお体の具合が悪くなられていた昭和天皇が、「お正月」という日本国民にとって一番大切な祝日に崩御させてはならないと無理に延命措置をされたために、その分長く苦しまれて最期を迎えられたということ。
その頃、私は母と「天皇さん可哀想やなぁ。早よ楽にさせてあげたらいいのに。これも、最後のお役目なんやろうなぁ」などと会話したのを覚えている。
自分の寿命も、その最期の迎え方も自由ではないのが「天皇」。
人間て、背負っているものの重さとその覚悟の度合いが「お人柄」に出るんやろうなぁ。
私は、そんな皇室が好きだ。
こんな言い方をすれば「右」の烙印を押されそうやけど、皇室が外交の面で「日本の顔」となっている事には、日本国民としてやはり安心と誇りを持つことができる。
次の年号は別に何でもイイけど、次の天皇もぜひそんな風に感じさせてくれるお人柄であって欲しいと願う。