こだわらない生活がしたい

あらゆるこだわりから自分を解放していくブログ

「したくない事をしない」のは「こだわらない生活」なのか?

タイトルがなんかもう( ̄д ̄)ティーンエイジャーっぽいけど、書いてるのはアラフィフです。

 

知らず知らずのうちについ「今やる」コトにこだわり後でシンドくなるので、このブログをきっかけにそういう自分に気付いたら「別に今やらんでもエエことやん」と目の前の家事を捨てていってるのですが、それで特に家の中が汚れるというコトも無くなぜかむしろ以前よりキレイな気がするのはなんで・・・?

 

中学生の時に、クラス全員が「将来の夢」をそれぞれひとこと書いて教室の後ろに貼り出していたのだけど、当時好きだった男の子のソレをこっそり見たら「わがままな生活」と書いていた。のをふと思い出した。

ちなみに私はカッコつけて「地平線を見てみたい」って書いた。確かに当時の本心ではあるけど。(-_-;)

 

大人になってわかった事は「したくない事の繰り返しこそが生活というものである」ということ。

したくない事を何とかラクにやろうとして人間は知恵を絞る。それが文明だ。知らんけど。

 

もーコレ、ちょー嫌なんですけど!!っていう感情が無ければ、それを「変えたい」とも思わないのだし。

 

今日なんとなく自分自身に対して思ったのは「したくない事をしない」で終わっても勿論イイんだけど、その選択のままエンドレスでイケるワケじゃないってこと。

 

生活とは「誰かがやらないと成り立たない」ことで溢れているからだ。

 

感情の生き物だから、ほんの些細な用事が「泣くほどイヤ」な時がある。子供の様に泣いたりしないだけで大人だってしょうも無いことでひっそり泣く時があるのだ。

 

だけど、誰かがやらないといけない事なら「じゃあ、自分がソレをやってもイイやん」とそういう角度でとらえてもいいのかなとちょっと思ったのです。

 

自分のタメに確認しておきますがこれは「家事」の話です。
 

ようは、「私は家事が絶望的にキライ」という話です。 

やるのもやらないでいるのもストレスになる家事というもの。これが会社なら仕事だと割り切れるのに。

 

なぜ「家事」を会社での仕事のように割り切れないのだろう??

 

「したくない事をしない」のは「こだわらない生活」なのか?と言うよりも、「したくない事をしない」ことが「こだわらない生活」に繋がるのか?という感じ。

すでに答えは出てる問い。

それでも、こんなして考えないといけない日もある。

アラフィフでも。