「プライド」捨てる?
「私はパニック障害やからコレとアレはアカンねん」
・・・っていうのをリアルで人に言う時がありますが、私にとっては単なる説明です。
パニックが出そうなツライ時には他人への配慮が欠けてしまってる時があると思うから。
そういう時、私の機嫌が悪いとか相手のことを不快に思ってるとかいうことではないんだと、予め周囲に宣言しておきたいだけなのです。
それによって相手に何かを求めているワケではマジで決してないのだけど、それを聞いた側はそうはいかない。
病気であるコトを宣言された側は、やはりその人間に対して何らかの「気を遣う」ということになるだろう。
私は結局、「自分の人格を誤解されるかもしれないという自分のリスク」と「相手に気を遣わせる」のを天秤にかけた結果、後者を選んだズルい人間なのです。
私以外の、世の中にいる病気の方々はそのあたりどう処理してるんだろう。
納得がいく「考え方」があるなら是非知りたいものです。
「健康だった頃の私は、あらゆる事に耐えてきた強い人間だったのです」という自負は私が持っている唯一のバックグラウンドであるのに、今はそれ自体が私自身を辛くさせている。
捨てるしかない。
自分という船が沈まない為に。
ええカッコしいの自分をずっと捨てたかった
今日捨てたのは「ええカッコしい」の自分。
どんなところが「ええカッコしい」なのかというと・・・
・頼まれごとがあると、その期日を自ら早い日に決めてしまう。
デキる人、頼れる人だと思われたい。
・ホントはシンドイのに、化粧や目薬や話し方でそれを隠す。
いつ会っても同じ安定した人格だと思われたい。
・数人いる場では常に、多数派の意見にはない意見を言おうとしてしまう。
アタマがイイと思われたい。
・家の1階の掃除は、いつ来客があってもイイようにしてるけど2階はカオス。
キチンとしてる人と思われたい。
・ハムスターやメダカを「早死にさせてはいけない」という世間体を気にするほうの強迫観念がある。
動物にも優しい人だと思われたい。
なんか、こうやって書いてると自分がコワくなってきた。とくに最後のヤツとか。
たぶんこの性格は物心ついた頃ぐらいからすでにそうで、それが証拠に私の母曰く、
「アンタは一度も手のかからん子やった。一緒にお出かけしても、教えてないのに人の家に行ったらちゃんと正座してるような子やった」と何度も言われてきた。
オイオイオイオイ、大丈夫か私。(;^ω^)コレちょっとヤバいやつとちゃうのん。
今日ポイッとこの「ええカッコしいの自分」を捨てたところで、明日になったらまた新しい「ええカッコしいの自分」が何もなかったようにニョキッと甦ってるよきっと。
もうホンマになんやろこれ。
こういうのはもう全部ゴミやと思って、日々捨てていく。
いやはや、子供の頃に手のかからなかった子は大人になってから自分で自分に手を焼くようになるのかも知れません。
コレ重要案件。
つるかめつるかめ・・・。
「人のふんどし」ブログは読んでてツライ時がある
ブログを始めてから気付いたのが、ほかの人のやり方をそのまんまマネている人間がネットの世界では多いんだな~ということ。
「人のふんどしで相撲を取る」っていうの。
たとえば雑記ブログでそういうのが記事の中に時々混じってる程度なら「ああ、いま試行錯誤中なんやろうな」と思うだけなんですが、ジャンルが同じの「特化型ブログ」ならちょっとキツイ。
「特化型ブログ」って記事の内容を限定している事を予め宣言しているから、自分と同じジャンルと競合するのがわかってて「勝負」している感があってはっきり言ってすごくカッコいい!あるいは、中にはそんな気は一切なくてただただその「趣味」を純粋に書き連ねているだけであるのも、当人がとても楽しんでいるのが伝わってきてはっきり言ってウラヤマシイッ!
そういうのとは違って「人のふんどし」ブログのなにがキツイって、読者側は「あきらかにマネをしてるのがわかる様な全く同じ記事を見せられる」から。これ正直、読むのが苦痛なんです。
どのブログが「本家」かはブログ日数や投稿内容を遡って見ればわかるし、もうこうなってくると本家さんの方に頑張ってそのブログを続けてもらわないと「人のふんどし」ブログの方が本家になってしまう…。なので、密かに本家の方のブログランキングを応援してる。
これが起業とか新製品開発とかなら、どこかの二番煎じをやるのは当たり前だからそれをいちいち「人のふんどしで相撲を取る」という表現をしたりはしないけど。
だって、その場合は二番煎じをやってる側にはリアルなリスクがあるから。
ブログやYouTubeは(顔出ししなければ)そのリスクがない。
たぶん、リアルではやらないような人でも匿名のブログやYouTubeだとどんどんやっちゃうのかなぁ…。
「そういうところがやっぱりネットなんだなぁ…」とつくづく思う。
「広告収入をアテにしてるから半分は仕事だ。やれる事は何でもやる」とは言っても、ブログやYouTubeは「起業」じゃない。
それにどれだけの時間を費やしていても、アテにできるような「収入」に繋げるつもりでやってるなら「人のふんどし」ブログではムリだ。
それをただ「趣味でやってる」場合ももちろんあるだろうけど、その「他人の趣味」に対しての意見が言いたいワケじゃ全然ないけど「人のふんどしでやってる趣味をやってて、そこにやりがいはあるの??」という何とも言えない気持ちにさせられるのがそんな記事を読んでる読者にとってはちょっとストレスなのです。
私は、ブログを始めてすぐの頃から「特化型ブログ」に憧れています。話や興味の対象があっちこっちいってしまう私は雑記ブログしか書けない。
でも、やっぱり「特化型ブログ」をあきらめきれず、せめて何かはっきりとした特徴をもった雑記ブログに挑戦してみたいという想いもあってこの「こだわらない生活がしたい」というブログをサブで始めた。
このブログは「身に付かないにわか的なこだわり」を捨てていきながら、それによって自分の中にあるホントのこだわりを探りたい目的を持っています。
今日のこの記事は、ただ他人のブログをくさしているだけで申し訳ないのだけど、私自身の本当のこだわりの確認作業でもあるのです。
お許しください。🙇
今日はこの焦燥感を捨てる!
このところ、あまりにも一週間が早く過ぎてしまう。
まだ11月だけど、いつもの師走以上に早く感じる。
家事やその他、予定どおりにこなせていない様々なコトがずっと気になってアセッてくる。
勤めていれば「仕事優先」になるから、プライベートが少々疎かになってもとりあえず「仕事」の方さえ順調にやっていればそんな自分を「許す」ことができた。「仕事」には給料があるからそれに費やした時間への対価が目に見えることや、その対価で疎かにしたプライベートを取り戻し、少なくとも自分の中では「トントン」にできるのだ。
けれど今はパニック障害で勤められないから、そういった日常の焦燥感がモロに迫ってくるのがすごくシンドイ・・・。
ようは「仕事が忙しい」というルーラ魔法を失い逃げ道がないのがシンドイのだ。
自分自身に「病気だから」という言い訳を向けるのも、まだまだ抵抗があるのだ。
さりとて、日に日に募る焦燥感がもたらす破壊力がいよいよヤバイ。
だから、こう考えてみる。
そもそも私の中に「~しなくてはならない」とか「~であるべき」という「こだわり」があるから、自分を許せないのでは?
ならば、この焦燥感を「こだわり」として捨てる事ができるのかも知れない。
これが「すりかえ」なのかどうかは判断しかねるけど。(-_-;)
平成最後の年ではあるけれど
news番組で「平成最後の秋も終わり…」など、やたらとソレを意識させるようなフレーズを巷で耳にする。
国民が目にするあらゆるメディアや役所や貨幣や様々な物販等に使用されてきた「平成」という文字を全部新しい年号に変えなければならないのだから、それに関わる特需がもちろんあるし、たとえそういうのに全く関係のない(私のような)人達でも「平成のうちにしておきたいこと」みたいなのが沸き起こって何らかの動きをするかも知れない。
なかには、平成のうちに「アノ人に告白する」とか「プロポーズを決める」とか。
何にせよ、人が動けばお金が動くのだ。当たり前やけど。
それで、そんな世間を意識してしまうとついウッカリ私も「平成最後の年に、なんかやっといた方がエエことはあるかな?」なんて考えてしまいそうになる。
また、変なこだわりをひとつ増やしてしまいそうになる・・・。
そんな自分に軽くブレーキをかけるために私は、昭和から平成に年号が変った時の自分を思い出してみたのだけど、その昭和最後の年に私はなん~にもしていない。
そして案の定、私はあの年号が変わる時に「記念になるような事をなにかしておけば良かった」なんて事は、一切思っていない。
だからこの、「年号が変わる前に何か普段と違うことをやりたくなる」ような「にわか的なこだわり」を今日は捨てる事にした。
そう。
私が捨てたいのはこういう「にわか的なこだわり」なのだ。
日々、こんな気付きを自分に与えるためにこの「こだわらない生活がしたいブログ」を始めたのだ。( ̄▽ ̄)♪
一般の国民は個々の生活の中で果たすべき義務をいくつも背負っていて忙しいのだよ~。
ところで昭和最後の年で印象に残っているのは、その前年からお体の具合が悪くなられていた昭和天皇が、「お正月」という日本国民にとって一番大切な祝日に崩御させてはならないと無理に延命措置をされたために、その分長く苦しまれて最期を迎えられたということ。
その頃、私は母と「天皇さん可哀想やなぁ。早よ楽にさせてあげたらいいのに。これも、最後のお役目なんやろうなぁ」などと会話したのを覚えている。
自分の寿命も、その最期の迎え方も自由ではないのが「天皇」。
人間て、背負っているものの重さとその覚悟の度合いが「お人柄」に出るんやろうなぁ。
私は、そんな皇室が好きだ。
こんな言い方をすれば「右」の烙印を押されそうやけど、皇室が外交の面で「日本の顔」となっている事には、日本国民としてやはり安心と誇りを持つことができる。
次の年号は別に何でもイイけど、次の天皇もぜひそんな風に感じさせてくれるお人柄であって欲しいと願う。
「人生100年時代」と聞くと「 悪い冗談でしょ?!」とドン引きしてしまいます
今週のお題「紅葉」
あらゆる事に対して素直でありたいと普段から思いつつも、これを受け入れるのはムリそうです。
「人生100年時代」と聞いてヤッターッ❢❢となる人はハッキリ言って素敵です。
でも実際、身近にそんな方々がいらっしゃったらきっと私は、羨ましさと鬱陶しさが同居した妙な気持ちになりそうです。
そんな私は、きっともう「人生の紅葉」時代に入り始めているのです。
本日より「こだわらない生活がしたい」というブログを始めました
こだわりのある生活って素敵です。
私もこれまでそういうのに憧れて、自分の生活に取り入れた時期が何度もありました。
部屋にグリーンを置きたくなり、何度もポトスやパキラや幸せの木や虎の尾やバンブーなんとか等 、ぜんぶ枯らしました。
間接照明に憧れてクリップライトをいくつか購入しましたが、使い方を誤り夜中にライトで毛布を焦がして部屋をもくもく煙りで満たしたり。
手作り菓子に憧れて、アーモンドプードルや粉糖やゼラチンや寒天を買い置きしながら結局、何も作らず存在を忘れ何年も経過したり…。挙げればキリがないです。
ですが今、病気・退社・移動手段の限定、そしてアラフィフという年齢もあるのかないのか、自分の状況が変わった事でこれまで憧れながらも結局は身に付かなかったようなモノや考えは、ひとつひとつ手放してラクになっていこうという気持ちになりました。
「十人十色」 自分もそのひとりであるということ
こだわりのある生活って素敵です。
でも、私にとってそれは、喫茶店や銀行に置いてある雑誌でたまに他人の素敵生活を見て「お~素敵❢❢」と小さく呟く程度の楽しみ方でいいのだと気づきました。
そうして、ひとつひとつ個人的なこだわりを手放していってもなお残るものが「自身にとっての本当のこだわり」であるのかなと。
一見、様々なこだわりを発信されている方々への批判ともとられてしまいそうですが、そうではないのです。そういう発信から遠ざかろうとしているワケでもありません。
ただ、それらの受け取り方を変えようというだけです。
アラフィフになってこんな事を言うのはオカシイかもですが、自分の個性が何処にどんな形で在るのかを知りたくなったのかも知れません。自分探しというのとはちょっと違います。
そんな心境の変化に合わせてこのブログを立ち上げました。
私にとっての「紅葉シーズン」がスタートです❢❢
たとえ世間が「人生100年時代」となっていこうが関係ありません。
人生を四季にあてはめるなら、自分にとって鮮やかな紅葉をパアッと魅せるのを最後にして、枯れ木となったらしめやかに。私は平均寿命マイナス5歳ぐらいで老衰でぽっくり死ぬのが理想でございます。つるかめつるかめ(*^^*)